旧横浜港駅プラットホームの見所
今は亡き祖父と祖母が横浜高島町で畳屋を営んでおり、横浜港駅の話は昔話でよく聞いていたのですが、旧横浜港駅プラットホームに足を運ぶと、当時若かった二人がこの場所付近に訪れていたんだっと思うと、なんだかいつも一人、不思議な空気に浸ってしまう場所です。横浜市周辺に存在する駅のプラットホームと比較すると、とても小さく、古びた駅ですが、横浜港駅ができた明治44年は革新的な駅であり、当時東京、新橋、品川、横浜港駅間をつないでいたこのプラットホームが無ければ、日本の高度経済成長を遂げる一歩が踏み出せなかったんだろうか?など、いろいろな事を考えさせられる場所でもあります。
目次
港町横浜の魅力
横浜の魅力は、近代的で海が近い港町でありながらも、古い歴史有る建物が至るところに点々とあるところだと思います。古い歴史ある建物がそのまま残っている場所もありながら、赤レンガ倉庫のように再建し、横浜のランドマーク的存在になる建物なども魅力です。生まれ育った街に、祖父や祖母が過ごしていた頃の街並みが少しでも残っていると、その場所を通り過ぎる度に、目に見えない置手紙が残されているような気分になります。私が横浜で生まれた場所は、横浜市中区相生町にあった国際親善病院なのですが、今は泉区の弥生台に移転してしまっているのですが、当時国際親善病院があった相生町の場所には、国際親善総合病院のメダリオンが今もなお残されています。ちなみに私は、生まれたのは中区相生町時代の国際親善病院なのですが、人生初の手術を受けたのは、中区から泉区の弥生台に移転した国際親善病院でした。ここもまた、なんだか不思議な気分になりました。
旧横浜港駅プラットホームがある場所
旧横浜港駅プラットホームがある場所は、赤レンガ倉庫のすぐ側にある赤レンガパークのすぐ隣です。マリンアンドウォークのすぐ目の前と言うとより分かりやすいかと思います。旧横浜港駅プラットホームの目の前は、赤レンガ倉庫になります。
この日訪れた時は、夕暮れの空がとても綺麗だったので、赤レンガ倉庫方面を撮影してみました。
赤レンガ倉庫の詳細については、以下のページでまとめています。
この日は夕焼けがとても赤く、ベイブリッジも鶴見つばさ橋も真っ赤に染まっていました。
ベイブリッジの詳細については、以下のページでまとめています。
こちらは、旧横浜港駅プラットホームの夜景です。
旧横浜港駅プラットホームの夜景については、以下のページでご紹介しています。
旧横浜港駅プラットホームのスポット情報
旧横浜港駅プラットホームの住所は、〒231-0001 横浜市中区新港1-2-1です。地図とストリートビューをあわせて記載しておきます。
地図
ストリートビュー
以下は、旧横浜港駅プラットホームにあるパネルの説明内容となります。
旧横浜港駅プラットホームについて
「横浜港駅」は、明治44年(1911)、横浜税関構内の荷扱所としてつくられ、大正9年(1920)7月23日、「横浜港駅」となり、東京駅から初の汽船連絡列車が乗りいれました。列車はその後、「岸壁列車」などと呼ばれて親しまれました。関東大震災の復興期、昭和3年(1928)当初の花形外航ターミナルにそって旧「横浜港駅」の「プラットフォーム」が設けられ、華やかな海外航路時代の最盛期をむかえました。「赤レンガパーク」の休憩所として保存再利用にあたり、傷んでいた上屋は新材料で復元しています。
連絡列車のエピソード
- 大正9年7月23日日本郵船「香取丸」の出港に向け、2等115人3等116人を乗せた連絡列車が、東京からの乗り入れ第一号。
- 戦後、昭和32年8月28日「氷川丸」出航時に再開。
- 昭和45年10月10、11、18日SL-D51が東京駅、横浜港駅間を走る。またこれが同区間を走る最後のSLとなった。
プラットホームから見た4号岸壁のイベント(昭和3年~)
- 昭和3年日本郵船「これあ丸」の出港がプラットホーム利用の第一号。
- 昭和4年英王室よりグロスター公が「サフォーク号」で来日。
- 昭和5年「秩父丸」がサンフランシスコへ処女航海。
- 昭和34年宝塚歌劇団一行「氷川丸」にてカナダ、アメリカ公演に出港、5千人の見送りでにぎわう。
- 昭和35年、氷川丸最後の航海に出航。(この後氷川丸は横浜港のシンボルとして現在に至る)
東京→横浜港駅の時刻表より
- 東京駅発午後1時5分→新橋→品川→午後1時56分横浜港駅プラットホーム着所要時間51分、帰りは3時25分横浜港駅発であった(昭和3年)
- この列車は外航船出帆日の臨時便で「御乗車ノ際ハ予メ御問合セ下サイ」と追記してあった。
- 運賃は東京・横浜港駅間2等1円6銭、3等53銭。当時はカレーライスが15銭ぐらいである。
見所、夕暮れ、夜景
旧横浜港駅プラットホームの見所、夕暮れ、夜景をご紹介しています。